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宮古市の川部商店のご主人から津波で水をかぶった家族写真の復元を依頼された。
見開きの台紙に挟まれた写真だが、津波で水をかぶり開かない状態だった。先輩に助言をいただき、ぬるま湯に界面活性剤を入れ1時間ほど浸した。これでなんとか開くことが出来たがやはり写真はかなり痛んでいた。でも写真の修復自体は仕事でいつもやっているので、まる2日間かかったが下の写真のように復元が出来た。完璧とは行かないがなんとか喜んでいただける状態だと思う。
被災した方々になにかできないかと考えていたが、微力ながらもお手伝いできたと思う。
何となく気持ちがすっきりした。
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 当初、宮古市まで到着するまで被災して大変な状況を写真に撮るのはどうだろうかと悩んでいた。しかし宮古市の現場では刺々しい雰囲気というのは全く感じられず、被災地を除けば普通の生活が戻っていた。半年が経ちいつまでも過去を悔やんでいては行けないという気持ちがあるのと同時に、元々のこの地域の人々の気質もあると思う。
 そんな中、一つ気になることがあった。私は北海道に住んでいるせいかあまり気にしたことはなかったが、魚介類の放射能汚染を口にすることが何人かいた。「沿岸であがった魚は食べない」とはっきり言う人も中にはいた。この地域は被災地であり本来同じ被災地同士かばい合うのが普通であると考える。たぶん食べないという人たちにもそのような気持ちはあると思うが、それよりも放射能汚染の方が深刻なことだからこのような言葉が出てくるのだろう。
 今回の震災の特徴は津波のような一過性の災害の他に、原発の災害と言う収束まで何十年単位もかかる災害も二次的に起きた。北海道に住む私たちも本当は影響を受けているのかもしれないが、離れているためあまりリアリティーを持てない。この問題は福島原発の近くに住む人たちにとっては震災はまだ終わっておらず、これから果てしなく続く災害だと認識した。
 今回の取材で思いのほか復興が進んでいて、自販機がその復興のともしびとして輝いている姿を見た。原発事故などまだ収束していない事案もあるが、気持ちを切り替えて前に進もうとしている人々とお話が出来た。このような人たちとお話をしていて私自身も救われたような気持ちになった。
これだけ大変な目にあったのだから、これからどんなことが起きても乗り越えて行けると言っていた商店の方もいた。これから寒い冬を迎える、この地域は雪はあまり降らないが寒さが厳しいと言っていた。プレハブの仮店舗で営業をする川部さんは82歳になる。再建したら店の写真を撮りにきますと約束をしたので是非又宮古を訪れてみたい。
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 宮古市の海岸と港周辺は鉄筋の建物以外は全て津波で流されたようだ。
私が訪れた時にはがれきがほとんど処理され、ここに街があった面影を残すのは土台だけになっていた。わずかに倒壊をせずに残された海岸から少し離れた住居の住民は、自分の家がこんなに海が近かったのかと言っていた。家がびっしり建っていた頃には家から海までの距離は解らなかったのだろう。
 そんな中、港町地区を歩いていると倒壊寸前の建物にお花やお供物が供えられていた。そこは宮古警察署港町交番の後で二人の警察官が津波で殉職したという。二人は地震の直前、緊急搬送された人の搬送に関わっていた。津波が迫る中、緊急搬送した人を高台に避難させる作業中に津波に飲み込まれたという。交番の前には「鍬ヶ崎のためにありがとう」と書かれたメッセージカードがあり胸が熱くなった。このように今回の震災で職務を全うしてなくなった警察官や消防署の人が沢山いたと聞いた。
普段当たり前に生活しているありがたさを思う。
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前回の続きです・・・・

宮古市内はがれきの撤去が進みほとんど見当たらなかった。ただ市内から10Kmほど北にある田老地区はまだ復興がかなり遅れていた。下の写真は田老地区のがれきの中にあった自販機で無惨な姿をさらしている。この田老地区も明治29年と昭和8年の津波で100人単位の犠牲者を出している。そのため宮古市内と同じように万里の長城といわれる高さ10m,長さ2Kmほどの巨大な防潮堤を作っていた。今回の津波も当初3mとアナウスされ、田老地区の何人かの人たちはこの防潮堤にあがり津波を見ていたという。もちろんこの人たちは流され、津波の予報が問題となっていた。
しかし、リアス式海岸の奥まった所にある宮古市より海側、重茂半島にある姉吉地区では先人の教えが
石碑に刻まれ一軒の被災もなかったという。過去の津波の後、地区を海岸から800m高台に移し石碑を刻んだ。石碑には「ここより下には家を建てるな」ときざまれ今回難を逃れたという。
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昨夜深夜に東北から帰ってきた。
今回訪れた岩手県宮古市は3.11の震災当時、防潮堤を超える津波が車や船を押し流している映像がテレビで数多く流されていた場所だ。しかし被災地としては早く復興が進み宮古市内はがれきの撤去は田老地区を除きほぼ完了しているようだった。周辺の山田町や大槌町は被災の大きさが宮古市よりも大きく復興はまだ先のようである。
一応自販機を少し大げさな言い方ではあるが「復興のともしび」としてとらえ取材に来たと地元の人にお話しすると、そのような捉え方もあるのかという反応もいただき大変好意的に扱っていただいた。周りで沢山の人が亡くなり財産もなくなり、半年が経ったとはいえまだまだ自分たちのおかれている位置を客観的に見ることは出来ないという。私のようなよそ者の話など聞いてもらえないと思っていたが、意外とそのような話を聞きたいとおっしゃっていた。
宮古市の中で一番被害の大きかった蛸の浜地区で先代から80年間商店を営んでいた川部さんという方とお話が出来た。川部さんのお店は津波で全部流され、現在は下の写真のようにプレハブのお店で営業をしていた。車を流されて当初、関東からリースで軽トラを借り営業を始めたという。最近になりプレハブの店舗になり、店の再建を目指すという。しかし店の再建は建築規制がかかりいつになるのかとため息をついていた。建築規制は地元の住民の同意がまとまり再建計画が承認されなければならないという。再建計画案も見せていただいたが、盛り土にするのにも移転するのにもどちらも大変なことである。現在仮設住宅に住んでいるが仮設住宅の期限の2年間で決まるような内容ではないとおっしゃっていた。
店と住宅は流されたが家族は無事てあったのが救いであったと言っておられた。この宮古市はかつて明治29年と昭和8年に大きな津波で数百人単位の犠牲者を出している。それでそのとき8mの津波だったので高さ10mの巨大な防潮堤で数キロにわたり街の周りを覆った。この防潮堤が出来たことにより防災のモデル都市となり各地から見学者が来ていた。しかしこの万里の長城と言われていた防潮堤もあっけなくこえられ6万人の市民の一%にあたる600人の命を奪った。
川部さんは自然に対抗するという気持ちは持たない方がいいと言っていた、ただ逃げるのみだとしみじみ話していた。
この後、何回かに分けて今回のレポートを載せたいと思う。
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国道5号線、小樽の手前にあった自販機。
道路縁にぽつんとあり、坂道の途中でなかなかここで車を止めるのも大変そうだ。

さて、明日からは8日までの日程で東北に向かう。
被災地も復興が始まり、自販機も「復興のともしび」となっているだろうか。
あの震災から半年が経った。あまりの被害の大きさにとても現地に足を踏み入れる勇気がなかった。
偶然いたとしても写真を撮るなど出来なかったと思う。

報道を見るとようやく復興の兆しが見えてきたように思う。
自販機を通して何が見えてくるだろうか。
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